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『キャラクターメーカー』by大塚英志氏の感想とまとめ

大塚英志氏の著書『キャラクターメーカー』を読んだのでその感想とまとめを紹介します。『ストーリーメーカー』、『キャラクターメーカー』、『物語の命題』は大塚三部作ともいわれていて、物語を創作したい人にとっては大変ためになる本です。

ただ一方で、「映画やマンガのストーリーは公式に従えばだれでもつくることができる」と考える筆者の考え方に反発も多いようですね。

個人的には、『キャラクターメーカー』に書かれてあることは、実際の映画やマンガのストーリーをうまく説明しているので、とても納得ができました。映画やマンガを新しい視点で見ることができる本だと思います。

『キャラクターメーカー』は前六章からなります。大塚氏が実際に大学で教えた内容ということで、講座形式で説明が進みます。

それでは第1講から見ていきましょう。

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第1講:アバター式キャラクター入門

第1講は、アバターについてです。

ここで言うアバターとは、映画の観客や小説の読者が感情移入する人のことです。日本の作品では感情移入するキャラ=主人公という作品の方が多いですが、ハリウッド映画では主人公=アバターではありません。

破天荒なキャラの主人公のそばにいて、冷静に観察している脇役キャラがアバターとなるケースの方が多いと言います。まあハリウッド映画に出てくる主人公は涼宮ハルヒのように積極的なキャラが多いですからね。

主人公のそばにいて冷静なツッコミをするキャラの他にも、主人公の心の声もアバターになります。吹き出しの外に書かれる冷静な心の声のことです。

冷静な心の声=観客目線=アバター。

この場合はアバターでもゴーストアバターと言われています。観客は主人公に感情移入しているように見えますが、実はそうではありません。主人公ではなく、ゴーストアバターに感情移入しています。

このゴーストアバターという考え方を日本文学の中に当てはめようとすると、日本の近代小説はゴーストアバター形式を採用していることがわかります。

夏目漱石に代表されるような日本の近代小説は、一人称語りで物語で進むので、ハリウッド映画で言うところのゴーストアバター形式を採用していると言えます。

もっとも日本の近代自然主義小説は、対象を客観的に観察する自然主義的観察眼を自分にだけ向けているという指摘は否めない。そうです。

ワークショップ:背中が犬のキャラクター  

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第2講:トトロもエヴァンゲリオンも「ライナスの毛布」である

この講座で大塚氏お得意の大胆な発言が登場します。

ラノベのようなキャラクター小説と純文学のような私小説に大きな違いはない。

スニーカー文庫に代表されるようなラノベと、岩波文庫のような純文学とには大きな違いがない。というわけです。筆者の説明を見ると、確かに形式的には違いないように思えます。

どういうことかというと、

明治時代の作家が、自分の心情を叙述したときの「私」が純文学とされ、その中に登場する友人や親、妹、姉の「私」がラノベという形になった。

ということです。例えば、夏目漱石の『心』に出てくる”先生”や”私”を主人公にした小説が今の純文学とされ、”お嬢さん”が主人公となる小説はラノベと分類されているということです。

なるほどなぁと感心させられますが、それでも個人的には、ラノベでは歴史や習慣といった日本人の伝統的な価値を書けるのか少し疑問です。

・・・と、前段階はひとまずここでおしまいにして、この講座では”移行対象”について学びます。

突然ですが、ファミリーロマンスという言葉を聞いたことがありますか? フロイトによる精神分析の用語だそうです。簡単に説明すると、

ファミリーロマンスとは子供が成長していく過程の中で自分の親は本当の親ではないという「空想」をすることで子供は「親」から自立していく。

、だそうです。

そして空想上の親と似た役割を果たすものに、心理学で”移行対象”と呼ばれるものがあります。

母親の代わり、もっと言えば乳房の代わりになるものとして、幼児が母親から自立する過程で現れます。 具体的には、ぬいぐるみだったり、幼児が口で噛むシーツだったり、もごもごという意味不明の言葉だったりします。割と幅の広いものです。

移行対象の典型的な例は、スヌーピーのライナスの毛布です。

ライナスはチャーリーブラウンの友達で、しかも年下ですが、普段は大人びています。ところが、ライナスが毛布を手放すと赤ちゃん返りしてしまいます。毛布が”移行対象”としてライナスを安心させているわけです。

ここではライナスを例に挙げましたが、”移行対象”を持つのは、児だけに限ったことではありません。時には大人も”移行対象”を持ちます。

例えば、映画『Mr.ビーン』の主人公が持っている熊のぬいぐるみや、『勝手にしやがれ』の主人公、パトリシアがベッドに置いている熊のぬいぐるみも”移行対象”と言えます。

このように、幼児だけでなく大人でも、精神的に大人になり切れない人には”移行対象”が必要とされます。

子供っぽい大人や、大人になろうと成長している子供には、ライナスの毛布のような”移行対象”が必要です。

こう考えると、宮崎作品に、”移行対象”としてキャラクターがよく登場するのもうなずけます。

例えば、となりのトトロの”トトロ”やもののけ姫の”2頭の巨大な”犬”そして、『千と千尋の神隠し』に出てくる”カオナシ”です。ただ主人公のそばにいるだけの存在で、主人公は作品中で成長していきます。

こう眺めてみると、☝のどれにも少年が登場しないところが、面白いですね。少年が出てくるとポニョの宗助のように、途端に用水の中に帰ってしまうわけです。

 

第3講:『手塚キャラクターはなぜテーマを属性としているか』

『手塚キャラクターはなぜ”テーマ”を属性としているか』の”テーマ”に当たる部分は第3講の最後まではっきりと言及されなかったので、最初は何を言っているのかイマイチわかりませんでした。

ここで言うテーマとは、マンガに出てくるキャラクターが持つ矛盾のことです。簡単に言ってしまうと、”マンガのキャラは連載が続いても年をとらない”という矛盾です。

最近まで「カツオくんは自分より年上だな」と思っていたのに、いまではサザエさんよりも年上なんて人も多いのではないでしょうか。 マンガに出てくるキャラクターが持つ矛盾というのは、そういうことです。

そして手塚キャラクターの鉄腕アトムはまさにこの”成長しない”というテーマを属性として持っています。確かに作品中で、天馬博士はアトムが成長しないことに腹を立てていますよね。

「科学者なんだから作る前にそんなことわかるだろ」

・・・とツッコミを入れたくもなりますが笑、なおさら手塚治虫先生は”成長しない”というテーマを描きたかったんだと思います。

さて、この講座の中で筆者はキャラクターの固有性について興味深い指摘をしています。

まんがのキャラクターに個性が生まれたことは、近代に入り、人間に固有性が生まれたこととパラレルな関係にあるということです。

第4講:雨宮一彦の左目にバーコードがあるのは何故か

しばしば物語の主人公には聖痕があります。

聖痕というのは、一種の標みたいなもので、主人公を他のキャラクターと区別するものです。言い換えれば、主人公を特別な存在にしているものです。

例えば、ワンピースのルフィの胸の傷や、NARUTOのお腹の(封印?)が聖痕に当たります。さらにはエヴァンゲリオンの碇シンジがエヴァに乗る資格があることも聖痕になりえます。なぜなら、エヴァに乗れることは特別なことだからです。

主人公に聖痕がある理由は諸説ありますが、大きく分けると2つです。

1つ目の理由は、最初に述べた「主人公を主人公たらしめる標」。このことはロシア民話でよく見られることです。ロシア民話に出てくる主人公は、戦いの途中で敵から傷を受けます。戦いに勝利した、主人公が帰ると、しばしば偽物の主人公が手柄を横取りしようとします。

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その時に、主人公と偽物の主人公を区別するために必要なのが聖痕ですたいていは王女やお姫様が主人公の聖痕を見つけて、偽物の主人公の正体を暴いてくれます。

キャラクターメーカーの中で筆者は、「私が私であること」を証明するプロセスが、ロシア民話に入っているのは興味深いと指摘します。なぜなら「私」という概念は近代以降に生まれた概念だからです。

2つ目の理由は、聖痕と物語の相性が良いということ。しばしば聖痕は主人公にとっての欠乏や弱点を表します。そして主人公が欠乏や弱点を克服することが物語の主題になります。つまり聖痕は物語を進行させるモーターのような役割を果たします。

例えばエヴァンゲリオンの場合、碇シンジくんはエヴァに乗る資格があるという一種の聖痕を持っています。一方でエヴァに乗れること以外は普通の中学生です。エヴァに乗ることで碇シンジは個性であったり、「私」であったり、固有性を手に入れることができるのです。

しかし実際はエヴァに乗ることを否定し続ける、つまり「私が私であること」を拒否し続けるわけです。ここに、物語の1つの主題があるようです。

エヴァに乗る資格は碇シンジくんにとって聖痕であると同時に、自分を悩ませるものでもあります。 その悩みや苦悩があるからこそ物語が生まれるわけです。  

聖痕について、さらに興味深いことは、聖痕が人間の歴史を反映しているという点です。聖痕(stigma)というのは、もともと奴隷につけられた標でした。つまり忌み嫌われる人間につけられました。

物語の主人公も、聖痕のせいで周りから疎まれたりします。 ナルトの場合は、へそにある九尾の封印の標のせいで、周りから恐れられていましたし、エヴァンゲリオンの碇シンジもエヴァに乗ったことで周りから嫌なことを言われていたと思います。

ところが、キリスト教が広まってから、聖痕に対する評価がガラッと変わります。

”聖”痕と言っていることからもわかるように、聖痕は敬虔なキリスト教徒の証と見られるようになりました。そもそも聖痕とは、キリストが受けた外的な傷が、何もしないのに信者の体に出てきたことに由来して、それ以降、聖痕を持つ者は特別な存在とされました。

物語の中でも聖痕を持つ者は主人公となり、特別な存在ですよね。 筆者が指摘するように、物語の中で登場する聖痕を歴史の流れの中でリンクさせると確かに興味深い関係があることがわかります。

第5講:自分からは何もしない主人公を冒険に旅立たせるためのいくつかの方法

講座のタイトルからして「??」な気もしますが、読んでいくと腑に落ちることが多いです。物語の主人公というと、ライバルと競ったり、敵と戦ったり、積極的に行動しているイメージがありますが、実際はそうでもありません。

むしろ主人公は自分からは行動しようとしません。

エヴァンゲリオンの碇シンジくんに至っては、冒険が始まってもウダウダ言い続けていますよね。まあシンジくんは極端な例だとしても、多くの物語の主人公はそれほど積極的ではないんです。

誰かからの依頼だったり、敵の出現だったり、ライバルの存在があって初めて主人公は物語(冒険)をスタートさせます。

第6講:影との戦い

『キャラクターメーカー』も残りは1講座です。最後の講座のタイトルは、「影との戦い」です。

敵役だと思っていたキャラは、実は主人公の成長を助けるキャラだったり、または味方だと思っていたキャラは実は、主人公の成長を阻むキャラだったり、という内容です。

それでは詳しく見てきましょう。

ここで、筆者は物語の主題を「主人公が自己実現すること」と大胆に打ち出します。もちろんすべての物語が主人公の自己実現の話とは限らないですが、自己実現と物語が相性が良いというのは否めません。

例えば、ワンピースならルフィは海賊王を目指して冒険していますし、ナルトは火影を目指して修行を積んでいます。両者とも自己実現をするために敵と戦ったり、仲間を増やしたり、時にはエッチな忍術を覚えたりするわけです笑

”主人公の自己実現”が物語の主題と考えると、敵対者や援助者といったキャラはそう簡単に区別できなくなります。

例えば、映画『羊たちの沈黙』で、レクター博士は凶悪犯罪者ですが、同時に主人公のクラリスに助言をする”賢者”や”贈与者”といったキャラにもなります。

では敵対者ではないかというと、そういうわけでもありません。

クラリスの幼少期のトラウマを知っているレクター博士は、その弱みに付け込んで、クラリスを”負の方向”へ導こうとします。

ここでいう負の方向というのは、言い換えると「負の自己実現」と言えるかもしれません。負の自己実現の例としてわかりやすいのが、『スターウォーズ』のダースベーダ―です。

ダースベーダ―は息子のルークを暗黒面へ導こうとします。もともとアナキンスカイウォーカーもルークと同じ、目標を持っていました。 ところが、ジェダイの騎士になって平和な世の中をつくるという自己実現の過程で、アナキンはダースベーダ―になってしまいました。

ジェダイの騎士になることと、皇帝に仕えることは全く違うと思われますが、実は似ている。というか、表と裏の関係にあります。

例えば、劇中でダースベーダ―はルークに向かって「世界に秩序をもたらそう」と語りかけます。

ルークの目的も世界に秩序をもたらすことです。もちろん、支配か調和かの違いはありますが、両者とも”秩序”ある世界を作ろうとしているわけです。

そういった意味で、ダースベーダ―とルークは表裏一体の関係にあり、ルークの自己実現が「正の自己実現」だとすると、ダースベーダ―は「負の自己実現」と言えます。

物語の中で「負の自己実現」をしたキャラはしばしば現れて、ユング派の心理学でいうところの”影”に相当します。

主人公と同じ目標や悩みを持っていて、主人公とは反対の方向で自己実現を果たしてしまうキャラです。

例えば、『千と千尋の神隠し』で言うところの、ハクが千尋の”影”に相当します。ハクは千尋と同じく名前を奪われ、湯婆の元で魔術を覚えて悪さをします。『千と千尋の神隠し』の主題は、大人になるために、仮初の名前を与えられた千尋が、成長する物語だと私は考えます。

千尋は名前を奪われても、正しい方向に成長しようとしますが、ハクの場合は、諦めて魔術を覚えて、負の方向に成長しようとします。

こういった意味で、ハクが千尋の”影”と言えます。 もっとも『千と千尋の神隠し』では、カオナシも途中で暴れまくることで、千尋の”影”として働きますが、基本的にカオナシは千尋のそばにいるだけの”移行対象”です。

ただ物語の中では、千尋の不安や悲しみを受け止めるキャラとしての役割もあります。 湯婆がカオナシが暴れた時に、「千がカオナシを連れてきた」という趣旨のことを言っていたのは、千尋の不安や悲しみにカオナシがついてきたという意味だと解釈できます。

本当の名前が”ない”千尋にくっつくからカオ”ナシ”という名前だとも言えますよね。

さて、では物語での”影”の役割は何でしょうか。 1つにはダースベーダ―のように敵対者を作ることだと思いますが、他にも理由はありそうです。この本の中で筆者が指摘しているのは、「影によって、主人公が独善的になることを防ぐ」ということです。

主人公の弱い部分や悩み、不安、苦悩、負の欲望といったものを受け入れる皿のような役割が”影”にはあり、その影と主人公を対峙させることは物語に深みを与えます。

まとめ

キャラクター記号説やキャンベルの『千の顔を持つ英雄』、プロップの『昔話の構造31の機能分類』、グレマスの行為者モデル、”移行対象”、”ライナスの毛布”などなど、出てくる考え方は、他の著書と同じです。

著者の他の本を読んだ方にとっては、真新しさはないかもしれません。 ただ、

キャラクターを作りたい人は、講座の最後にあるワークショップをしてください。

と筆者が言っているように、実践的に使うなら最後のワークショップだけやってしまえば大丈夫だと思います。 そうは言うものの、キャラクターという切り口で、さまざまな物語論に触れることで、より物語に対する理解が深まると思います。    

書いている人はこんな人

管理人
どうも、管理人です。

高校卒業まで東京で過ごし、大学から京都に来ました。京都や日本の魅力を伝えるブログにできれないいなと思っています。京都と就活記事とたまに政治経済を少々書いていきます。

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