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祇園祭の歴史。ユダヤと祇園祭って関係あるの?

『祇園祭』といえば葵祭、時代祭とならぶ【京都三大祭】の1つですが、その歴史はとても古く平安時代にもさかのぼります。

また祇園祭が始まってから現在に至るまで、存続の危機に何度も直面し、そのたびに復興を遂げてきました。

今回はそんな祇園祭の歴史について、迫ってみたいと思います。

1100年の歴史を3分で振り返る!!

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祇園祭の山鉾巡行は『ユネスコ無形文化遺産』にも指定されていて、その歴史はなんと1100年にもなります。

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なので、とても1記事では紹介しきれませんが、今回は要点だけをピックアップしました。

1100年もの歴史をわずか3分で振り返るという無謀のことに挑戦したので、気になったところがあれば、ご自身で調べてみてくださいね。

それでは祇園祭の歴史を超特急で見ていきましょう!!

祇園祭誕生

神や仏が今よりももっと熱く信仰されていた平安時代中期・貞観11年(869年)祇園祭は誕生しました。当時は全国的に疫病が流行していました。今とは違ってワクチンも薬もありません。

病気のときに頼るのは神か仏でした。この時も例外ではなく、当時の人々は平安京の庭園である『神泉苑(しんせんえん)』に66本の矛(ほこ)を立て、神輿を送って疫病退散を祈りました。『祇園会(ぎおんえ)』や『御霊会(ごりょうえ)』と呼ばれたこの祭礼が祇園祭の起源です。

ちなみに66本というのは当時の国の数です。また神泉苑に立てた矛が山鉾巡行の鉾の原型ですが、現在の山鉾のカタチとは全く違います。

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現在の山鉾が出現するのは祇園祭が『国の祭り』から『民の祭り』になる平安時代中期から後期です。

疫病を鎮める国のお祭りだった祇園祭も、だんだんとその意味が変わり、祭りの主役も国から町衆に代わります。平安時代末期になると、武家の台頭とともに町衆の力も増します。鎌倉時代になると、鉾にも長刀などの装飾をつけるようになりました。

この頃から祇園祭は活気に満ちてきて山鉾の数も増え、山鉾巡行もどんどん盛り上がりを増してきます。

ミドルと5行目と15行目だよ

度重なる戦火と火事

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次第に盛り上がりを見せていた祇園祭でしたが、順調なことばかりではありませんでした。室町時代に起こった応仁の乱で京都の街は壊滅状態に。京で常に戦闘が行われるという緊急時代です。

今から考えるとありえない話ですが、ある歴史家さんがいうには、応仁の乱の時は「日本人が日本ではなかった時だそうです」

基本的に日本で民衆は大御宝(おおみたから)と言って大切にされ、戦争の時でも百姓に迷惑にならないように畑や田んぼが戦場にならないようにします。

応仁の乱ではそんなこと関係ありません。誰彼構わず、略奪や強盗が起こり、民家だけでなくお寺にも強盗が入っていたそうです。

そんな状態でしたから、とてもじゃなけど祇園祭なんてやってられません。山鉾なんて建てようものなら山鉾ごと持ち去られてしまいます!

祇園祭は33年もの間休止することになりました。

その後、明応9年(1500年)に町衆の力で復活します。応仁の乱からの復興のシンボルとして、各町は競って山鉾をより豪華に巨大にしていきます。

応仁の乱の後、かえって盛大になった祭は、さらに豪華になっていきます。きっかけを作ったのは豊臣秀吉。秀吉は山鉾町を補助する『寄町制度』を設けます。派手なことが好きな秀吉らしい話ですね。

江戸時代になると、芸妓による行列も加わり祭に華をそえるようになりました。

ところが、再び祭に試練が・・・

京都の街を襲った3つの大火です。宝永(1708年)・天明(1788年)・元治(1864年)の大火によってまたしても京都の街は壊滅的なダメージを受けます。

天明の大火は1788年に京都に発生した火災で、史上最大規模だと言われています。京都の政治・行政の中心である御所・二条城・京都所司代が軒並み焼失したというからその凄まじさがわかります。

当時の京都市外の8割以上が灰になったと言われれいて、規模だけでいえば応仁の乱以上でした。

さらに、1864年に起きた『元治の大火』は致命的でした。大火といっても事故による火災ではありません。1864年といえば禁門の変の年で、政変によって都を追い出された長州が京都御所を舞台に会津・薩摩と戦争をしました。

御所で戦争・・・というだけで信じられない話ですが、さらには鉄砲・大砲も使われたというからさらに訳が分かりません。

ちなみに現在でも蛤御門にはそのときの弾痕が残っています。それも1発2発ではなく、数えきれないくらいです!

当然、戦火は街中に広がり、半分以上の家が焼かれてしました。見ている間にどんどん焼け広がったことから「どんどん焼け」とも言われています。

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そして、慶応元年(1865年)。前祭の山鉾巡行を中止、後祭に参加する山鉾も数基のみという応仁の乱以来の危機に直面しました。

しかし、危機にぶつかる度に立ち上がるのが京都の町衆です。財力や職人の技術をフル活用して、またしても山鉾を復活。復活させるどころか戦火の前よりもさらに豪華にしてカムバックしました。

太平洋戦争と祇園祭

徳川の時代が終わり明治新政府が出来ると祭も近代化の影響を受けます。大きな影響は2つ。まずは太陽暦が採用され、日程が6月から7月に変わりました。

さらに神仏分離令により、「祇園社」から「八坂神社」に名前が変わります。

道路の拡張や市電の敷設によって京都の街並は変わっていきますが、明治から昭和にかけても祭は変わらず開催されました。

太平洋戦争中は4年間休止しますが、戦後は昭和27年(1952年)から復活します。京都には空襲が少なかったとはいえ、わずか10年足らずで復活するのはすごいですね。

その後は観光客の増加によって山鉾巡行のコースは変わり、昭和41年(1967年)には前祭・後祭の巡行は合同で17日に行われることになりました。後祭の伝統を伝えるために、24日には花笠巡行が行われるようになりました。

後祭が復活

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後祭が前祭と合同になってから約50年。平成26年(2014年)に祇園祭を後世に正しく伝えるために、前祭・後祭の日程が復活しました。

年表で見る祇園祭

ここまで紹介してきた祇園祭の歴史を年表のカタチでまとめてみました。

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863年(貞観5年)

疫病を鎮めるために、御霊会(ごりょうえ)・祇園会(ぎおんえ)が神泉苑で開催。

869年(貞観11年)

神泉苑で66本の矛を立て、祇園社からは神輿が送られる。この矛がのちの山鉾の原型。

1467年(応仁元年)

応仁の乱の戦火や強盗・略奪によって祭が33年間中止になる。

1500年(明応9年)

祇園祭復活。

1708年(宝永5年)

宝永の大火。京都の街が火事によって焼失。橋弁慶山など山鉾にも大きな被害が発生。

1788年(天明8年)

天明の大火。史上最悪の大火事によって京都の街が8割以上焼失。函谷鉾、菊水鉾、など多くの鉾が被害。

禁門の変。長州藩と薩摩・会津藩が鉄砲・大砲を使って京都で戦闘を繰り広げる。戦火は拡大、街中に広がる。多くの山鉾は被害を受けたため、前祭が中止になる。

1869年(明治2年)

占出山、函谷山、保昌山が復活。

1877年(明治10年)

暦が変わる。太陽暦に従い、祇園祭が6月から7月に変更。

1923年(大正12年)

山鉾連合会が結成。

1943年(昭和18年)

戦時体制のため山鉾巡行が4年間中止になる。

1947年(昭和22年)

長刀鉾と月鉾が建てられる。

1953年(昭和28年)

菊水鉾が90年ぶりに復活。

1962年(昭和37年)

阪急電鉄の地下鉄を工事するため、山鉾巡行が中止になる。29基の山鉾が重要有形民俗文化財に指定される。

1966年(昭和41年)

交通の影響により、前祭と後祭が17日に合同で開催することになる。

1979年(昭和54年)

山鉾巡行が重要無形民俗文化財に指定される。

1981年(昭和56年)

蟷螂山が復活。

1988年(昭和63年)

四条傘鉾が復活。

2009年(平成21年)

京都祇園祭山鉾巡行が『ユネスコ無形文化遺産』に登録。

2012年(平成24年)

大船鉾が巡行に参加。

2014年(平成26年)

後祭が復活。

粽の歴史

祇園祭の山鉾でよく目にする『粽』。それぞれの山鉾で売られていて種類も様々です。

しかしよく見てみると、どの粽にも『蘇民将来孫也』と書かれた護符が張られています。一体なぜでしょうか。

実は祇園祭の『粽』にも長い歴史があるんですよ。

奈良時代初期に編纂された『備後国風土記』によると、八坂神社の御祭神である素戔嗚尊(すさのおのみこと)が旅の途中に裕福な『巨旦将来(こたんしょうらい)』の家に宿を求めた時、冷たくあしらわれてしまいました。

一方、貧しい『蘇民将来(そみんしょうらい)』は歓迎してくれましたので、蘇民にだけ茅の輪をお守りにすれば子孫を疫病から守ると約束しました。

実際に疫病が発生し、巨旦将来(こたんしょうらい)一族は滅びましたが、茅の輪のおかげで蘇民将来(そみんしょうらい)は無事助かったのです。

こうして、茅の輪をお守りにすれば厄除けになると言われるようになり、粽と名前を変えて現在でもつかわれています。

祇園祭の粽の護符に書かれている『蘇民将来孫也』という文字は、素戔嗚尊(スサノオノミコト)を歓迎した『蘇民将来』にあやかっているわけですね。

ちなみに祇園祭の『粽』は基本的には食べられませんが、最近では食べられる粽も売られています。食べられる粽って・・・普通のことかもしれませんが、、、、笑

「黒主山」が平成19年から販売を始めた粽は、黒糖風味の生麹で作られていて、夏でも傷まないように真空パックをしてあります。

よかったら「食べられる粽」を試食してみてくださいね。

祇園祭とユダヤの関係

祇園祭の歴史を紹介したら、こちらも紹介しておかないとということで、祇園祭とユダヤの関係です。

『祇園祭 歴史』と検索すると、あとに『ユダヤ』の文字が・・・・

『なんで祇園祭にユダヤが出てくるの・・・・⁉』

と思うかもしれませんが、実は結構有名なお話です。

山鉾をよく見ていると、旧約聖書一場面を描いた絨毯のような布が飾ってある鉾があることに気付きます。

この布は『前掛』と呼ばれる懸装品の1種なんですが、例えば『函谷鉾』では【イサクの嫁選び】の場面を描いた前掛があります。

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他にも『イサクに水を供するリベカ』を描いた懸装品もあるんですよ。

ただし、旧約聖書以外にも中国や朝鮮、中東に関係した海外の懸装品もたくさんあるので、旧約聖書を見つけたからすぐにユダヤと関係しているというのは早計ですよね。

それではこういうお話はどうですか?

他にユダヤと祇園祭の関係を示すものとしては、祇園祭の名前や期間、形式が挙げられます。

イスラエルのお祭りは『シオン祭』です。なんとなく『祇園祭』と似ていませんか?

また『ギオン』だけでなく、実はヘブライ語と日本語には似ている言葉がたくさんあります。住む(スム)、憎む(ニクム)、困る(コマル)はヘブライ語と日本語で同じだそうですよ。

ほかにも、祇園祭もシオン祭も7月の1か月続くお祭りです。

祇園祭以前にさかのぼって紀元前8世紀。アッシリアに滅ぼされたイスラエルの王国の10支族はどこかに行ってわからなくなってしまいます。この10支族は『失われた10支族』言われているのですが、東の方に行ったと言われているんです。

そして彼らが担いでいたと言われるのがモーゼの十戒が収められた『契約(神)の箱』です。その箱こそが祇園祭の神輿なのではと考えている人もいるですよ。

祇園祭とユダヤの関係、なんともロマンのある話ですが、実際のところはまだわかっていません。ただ、専門家の方も注目するほど共通点があるのは確かなことです。

もしかしたら、ユダヤと祇園祭の意外な関係性が見つかる日もくるかもしれませんね。

おわり

祇園祭の歴史をさっと振り返ってみましたが、さすが1100年も続く伝統行事ということで、物語がたくさんあります。

何回も存続の危機にぶつかりながら、それでも復活させる当時の人たちの血のにじむような努力が伝わってきますね。

そういった人たちがいなければ、京都の7月は何もない寂しい日だったのかもしれません。

祇園祭に参加するときは、当時の人たちの分まで楽しみたいものですね。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

書いている人はこんな人

管理人
どうも、管理人です。

高校卒業まで東京で過ごし、大学から京都に来ました。京都や日本の魅力を伝えるブログにできれないいなと思っています。京都と就活記事とたまに政治経済を少々書いていきます。

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